鍋島緞通

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歴史と伝統ある鍋島緞通は、日本の格式と風情を象徴しています。徳川幕府への献上品の時代から、お客様をお迎えする店舗やご家庭でもご使用いただける逸品を創り上げております。

吉島ひろ子の写真

先祖代々、口伝により伝えられ、織りの技術を授かってきました。

今日も「トン・トン・トン」と工房内から絶えることなく聞こえてくる。

三百余年前にも、同じ音の響きがしていたと思います。
・・・そして、そこには、いつの時代にも作品に対して厳しい目を持ち、職人に対しては、あたたかい気持ちで接する師がいました。代々続く当無寒暑庵にも、吉島ひさ子(三代目継承者)の半世紀にわたる鍋島緞通織元としての深き思いがあります。ここで、織り上げられる一枚一枚には、江戸時代から明治・大正・昭和、そして平成の時代を経た長き伝統と、師から伝えられる歴史の重みがあります。

歴史と伝統ある鍋島緞通は、日本の格式と風情を象徴しています。徳川幕府への献上品の時代から、お客様をお迎えする店舗やご家庭でもご使用いただける逸品を創り上げております。

「種痘の図」 秀島成忠筆 昭和3年(1928)嘉永2年(1949)7月、鍋島直正の前で淳一郎(直大、当時4歳)が種痘を受けている。

日本の緞通の歴史

元禄2年に長崎に唐人屋敷ができ、それまでの中国人は市内に住んで商いをしていましたが、特別な用事(お墓参り等)以外は外出を禁じられており、元禄時代は中国人と日本人との交流が制限されていたのです。

1654年(承応3年)中国の僧侶隠元は僧侶をはじめ技術者など、約20名の人々を連れ、様々な文物とともに来日しています。
この中に、緞通の技術を持った者がいたのではないかと推察されていますが、いつ、どのような形で我が国に緞通の技術が伝わったか、はっきりとした資料は残っておりません。
唯一残る資料として、扇町にある苗運寺に緞通碑があり、それによると、農業を営んでいた古賀清右衛門が、長崎で織りの技術を習った小作人より、緞通の技術を習得、12家に緞通の技術を伝授したとあります。
また、3代藩主鍋島綱茂候がそのことを聞き及んで嘉び、扶持米を賜わり家業として技術を伝えさせ、民間への売買を禁じていました。

江戸時代には「花毛氈」として鍋島藩御用品の格式を持ち、その他江戸末期より赤穂緞通、明治になり堺緞通が作られるようになりました。明治時代には鍋島緞通の名で華々しく宣伝され、明治3年頃、大島貞七他数名の有志が工場を設け、国内外の博覧会等に出品し活況をみせました。明治20年頃には紡績機が導入され、手引木綿糸より紡績糸へと変わっていきます。
明治23年頃、佐賀監獄が出来、所内で囚人の更生事業として、所長の吉島正敏や、藤戸精一の指導のもとで生産されていました。
大正時代になり原田義太郎、吉島正敏が緞通製織を開始しました。
そして、昭和18年には、吉島家・原田家の2軒が商工省の丸技保存の認可を受けました。

吉島家の歴史

吉島家緞通創始者 吉島 正敏 (幼名 土太郎)

蟹牡丹墨地(92cm×167cm)

生年月日
慶応3年8月26日生(1867年)~
昭和6年8月30日永眠 63歳
創業
大正元年(1912年)4月1日
(昭和24年度 佐賀市商工名鑑 佐賀市役所編より)
場所
佐賀県佐賀市赤松町城内47
受賞
大正9年2月28日 勲八等瑞寳賞
昭和2年5月20日  東亜勧業博覧会 記念状
昭和3年11月30日  阪神大博覧会 感謝状
昭和4年10月11日  朝鮮博覧会 感謝状
昭和3年12月1日  御大典 奉祝 佐賀県勧業共進会 記念状
昭和6年 商工省第18回工芸展覧会 三等賞受賞

明治45年退官の後、市内赤松町で緞通織りを始める。
「肥前佐賀 佐賀市赤松町城内47 鍋島緞通製造販売元 吉島正敏商店」と緞通袋に記載。最初に作った緞通を妻の里の秀島家へ贈る。

明治45年頃
蟹牡丹の図案を改良し蟹牡丹中心菱形をデザインする。

大正2~3年頃
蟹牡丹の色彩を研究し蟹牡丹黄色地を発表。

昭和5~6年頃
柳町の池田医院に手織り2帖もの寄贈。

吉島家緞通2代目 吉島 正清

昭和15年頃 佐賀市点合町の工房

昭和11年第一回工芸作品展覧会 褒賞

生年月日
大正元年(1912年)12月7日~
昭和17年(1942年)3月31日永眠享年31歳
場所
佐賀市点合町45番地
受賞
昭和9年5月23日 優良国産賞状 国際産業観光博覧会賞
昭和10年11月6日 主催 福岡日日新聞社
昭和10年6月1日 第3回西日本美術展覧会 入選
昭和11年10月28日 第2回絹新製品競技展3等賞
昭和12年7月20日 第一回工芸作品展覧会 褒賞 (写真)
昭和14年7月 第4回九州沖縄各県連合工芸試作品展覧会
昭和15年11月21日 特選賞状
昭和15年6月21日 第6回九州沖縄各県連合輸出振興
昭和16年5月24日 代用材利用工芸展覧会 特選
佐賀県工芸協会作品
輸出工芸品展覧会 3等賞
第2回貿易局工芸品輸出振興展覧会 褒賞
第8回九州沖縄各県連合工芸試作品展覧会 推薦賞状

昭和4年頃(17歳)
唐津中学を卒業後、家業を継ぐ。
正清氏は心優しい人で、いつも夕食の時は「お母さんの料理は美味しか」と言っていたという。
どんなに寒い日でも、庭にあった藍ガメで自分自身で糸を染めていた。
高校時代は弓道を熱心に励んでおり、今でもその弓が残っている。

吉島家緞通2代目の妻 吉島 義子

(左)昭和27年頃 賀市点合町の工房(右)昭和23年頃 昭和天皇佐賀へ御幸

(右)昭和42年 母義子と伸一久留米にて事業開始 (左)昭和31年頃 久留米市御井町 聖園授産場

生年月日
大正4年(1915年)8月11日~
平成3年(1991年)6月10日永眠
74歳
場所
福岡県久留米市御井町2376
受賞
昭和21年3月15日 新生九州産業展覧会 賞状
昭和46年11月7日 第20回久留米市総合美術展特選
昭和52年6月1日 第12回西部工芸展 朝日新聞社銅賞
昭和60年11月15日 伝統的工芸品産業功労者として表彰
昭和60年 久留米市技能功労者として表彰を受ける
昭和13年
吉島家へ嫁ぐ 家業の緞通を手伝う。
昭和17年より
伝統の技術を受け継ぐ。
昭和18年
佐賀県の鈴田照次先生や母義子の努力で、戦時中に吉島家・原田家の2軒が商工省の丸技保存の認可を受け、綿糸の支給を受け、かろうじて鍋島緞通の生産を続ける。
昭和24年5月
昭和天皇佐賀へ行幸。
昭和29年
佐賀より久留米に移り聖園授産場を開設し、ろうあ者に緞通の技術指導をする。
昭和42年3月
昭和38年より41年まで休業。
母義子、伸一、妻ひさ子の3名で事業を再開する。
会社名吉島敷物。
昭和60年
久留米市技能功労者として表彰を受ける。
伝統的工芸品産業功労者として表彰を受ける。
平成3年6月
平成3年6月 死去 享年74歳

現在、三代目 吉島伸一、四代目 吉島ひろ子、五代目 吉島夕莉子へと継承している。